GUI

再び Mac を使うようになって改めて思うのは、Mac のインターフェースはなんと直感的なのか、ということだ。こういう話をすると、Mac 信者とかマカーと言われそうだが、まあつらつらと。

MacPeople に柴田文彦さんの「マック再発見の旅」という興味深い連載記事があるのだが、本日発売の同誌の話題は「メニューバー」についてだった。奇しくも今回の記事の中で Jef Raskin 氏の話題も出てくるのだが、なぜ Mac は常に画面の最上部に常にメニューを置くのかという点において納得のいく説明がなされていた。

簡単に言えば、(ポインターの)移動距離が長ければ移動時間は長くなり、目標の場所が大きければ短くなる。マックのメニューバーは上側が突き当たりになっているから、マウスを余分に動かしてもポインターをデスクトップの上辺を越えて上に移動させることはできない。これは目標の場所が実質的に大きくなったのと同じことなのだ。目をつぶってマウスを上に向かって移動しても、必ずメニューバーの中にポインターが入るからだ。

実は僕自身、Windows のように、各アプリケーションのウィンドウ内にメニューを含めてしまったほうが分かりやすく論理的なのではないか、という思いは少なからずあった。ところが Mac を使っていると移動距離が長かろうが、場所が離れていようが、必ず上辺にメニューが存在することに不満は感じたことがなく、使いやすいと感じる。感覚的に感じていたことを、柴田さんは、そして Jef Raskin 氏は的確に指摘している。

Mac のインターフェースの美点はメニューバーに代表されるような哲学が一貫して存在するからなのだろう。単体のアプリケーションだけでは成しえない統一感。使っていると感じる心地よさ。数年前に Mac OS X に移行した頃、昔ながらの多くの Mac ユーザーがそういった心地よさが失われることに危惧していたようだが、たぶん今でもその精神は Mac に宿っていると思う。僕は WindowsLinux も使うし、Mac オタクというよりコンピュータオタクなのだけど、やっぱり Mac はいいなぁと思う。Microsoft が新しい Office を発売するたびに既存のインタフェースを壊して、他のソフトウェアもそれに習って、ということを繰り返すたびに、Windows のインタフェースはアプリケーションごとに操作感の異なる異質なものになってしまっているけど、今のところ Mac の世界は安心して暮らせるようだ。

柴田氏の記事は、メニューバーについて深く考察したあと、最後にこう締めくくっている。

マックでは、最初からメニューの可能性をほとんど探求し尽くして設計していたことは驚異的と言えるだろう。その後 20 年間、まったく新しい趣向のメニューは登場していないのだから。

Jef Raskin 氏の業績は計り知れない。御冥福を祈ります。